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美濃加茂市長問題CONCEPT

美濃加茂市長問題

30歳、若い真面目なこの市長を、何とか犯罪者として葬りたい日本の裏側のねつ造した収賄事件のようだ。一審は無罪、その後検事総長決済か、検察は控訴をした。 刑事訴訟法は、戦後に英米法の原理に変化したが、実施する人達、司法官僚達は、戦前の治安維持法を使って捜査、検挙を進めていた土壌の中の住人が、大審院が最高裁に変わっても、そのまま 平行移動したともいう。
ここを明るみにして変えていく中から、日本社会の戦後は、何を引きづりながら、ここまで来たのかを考えてみようと思う。
法律の構成だけでなく、法機関(立法府、裁判所、検察等)、そして法曹職の質が互いに影響しあいながら一つのシステムを成している。このシステムは何処を向き、国民生活に何をもたらすのか、それをどう改革できるのだろうか?

美濃賀茂市長への控訴の論点

目次

はじめに
1.日本の法文化の前近代性ーその1
2.日本の法文化の前近代性ーその2  
3.日本の法文化の形成過程―明治維新
4.日本の法文化の形成―第二次大戦後の憲法      
5.法律とは何だったのか?西欧と非西欧
6.嫌疑と事実―美濃賀茂市長の人柄と検察
7.裁判の中で見えてきた事―検察・裁判所の癒着と国民
8.法システムと言う考え方
9. 法システムの中の3つの要素(成文法・法機関・法曹職)
10.刑事司法の中の拷問状況について
11.法システムの働き方を変えるために


美濃賀茂市長への控訴の論点    
はじめに(1)2015.03.20 Friday

30歳、若い真面目なこの市長を、何とか犯罪者として葬りたい日本の裏側が、ねつ造したこの事件、一審は無罪。弁護人のブログを読んでハッとした事がある。それは提出された証拠、その組み立て方など、判決の根拠である証拠の、証拠能力自体を問うている事である。日本の司法とは、判決の論理構成と言う上澄みだけでなく、その底の証拠そのものの捏造のされ方、偽証拠を提供する事による原告と被告に贈られる現世の利益の動向こそを検討されなければならないのであった。

この事態は戦後この方70年も隠微に継承されていたのであろう。何事も、騙されたのであれば責任を免れると言う事ではなく、騙される事による利益との相関から悪意、犯罪性を推定されるべきであろう。この事態は、特に医療過誤訴訟(民事)において重大な問題であった。医療過誤訴訟の原告(被害者側)が提出する証拠はカルテが主要部分、全てに近い。しかしこのカルテは被告(加害医療側)が専断的に作成、管理するものである。どう書いても、書かなくてもチェックされない。刑事告発には激しいバッシングが起る。

普通の訴訟法的ルールから言えば、そもそも証拠能力を疑われるべき構成だが、裁判官の作成する判決文に、平気で被告側の証拠文書がコピペされているのを読む事もある。被告側病院組織が医療の勉強会を裁判官向けに開催する事もあり、被告と裁判官は親しく交流する関係にもなろう。裁判官は、検察と被告側(被告、弁護人)の間にあって中間的立場で双方の証拠を検討、判決文を書くと言う原則は、刑事事件でも無視され続けているので99%の有罪率、そして民事でもコピペである。

国民の最後の砦であるべき裁判所が、その証拠さえ収賄的に拵える検察とは一体的、その証拠を前提にして偉そうに判決文を読んでいた。今の自分達の都合のよいこの体制を変えそうな政治勢力、その核になりそうな人間、これを狙って厳しい冤罪、バッシングを浴びせるのではないだろうか。

小沢一郎、植草教授、鳩山由紀夫、山本太郎等への異常なマスコミのいじめ。今度はこの若い市長さんは骨がありそうなので、今のうちに何としても潰したい。そう想定すると全く良く納得できる展開が続いている日本である。

はじめに(2)2015.03.22 Sunday

太平洋戦争時には国民を洗脳、そして終戦による民主化万歳を浸透させた、これが日本の裏側であろう。その指令部が見返りなしに、日本に民主主義を贈るはずはないではないか。そういうリアリズム、合理主義とは遠い前近代性が、日本社会の可能性でもあり、限界でもある。そう思い定めて、現世の利益の為に手段は選ばない市場原理主義者から日本を取り戻さないといけない情勢になっているのではないだろうか。

小沢一郎、鳩山由紀夫、この若い清々しい美濃加茂市長、山本太郎、植草教授、三井環、マスコミのバッシングのターゲットを思い起こしてみよう。一方では安部総理、岡田克也、橋下など、えこひいきされる人達がいる。公共の放送がこう言う事を白昼堂々行っている。子供世界の苛め、リンチはこのような社会の中では、起こるべくして起こったと思う。毎日毎日、マスコミの個人攻撃、人間とは思えない人間像を流され続ける。そういう虚像、嘘を刷り込まれ、大人の方も「反日」などと、同じ人間を差別、軽蔑を叫んでいる。

刑事訴訟法は、戦後に英米法の原理に変化させられたそうだが、実施する人達、司法官僚達は、戦前の治安維持法を使って捜査、検挙を進めていた土壌の中の住人が、大審院が最高裁に変わっても、そのまま平行移動したともいう。捜査実務上の慣習を含めて変わる事が出来たのだろうか?否定的見解もあり、99%の有罪率を考えると、検察、警察と裁判官の一体性、どのような証拠も誘導する土壌は現存していると思わざるを得ない。

取り調べの全面可視化、人質司法の解消へとの改革を潔しとはしない。被疑者、抹殺されようとする側の人、その人権、それは古い中世世界で問題となった人権概念まで戻る必要さえあるようだ。

日本の司法とは、前近代性、そして市場原理主義的残忍さを併せ持っていると思われる。ここを明るみにして変えていく中から、日本社会の戦後復興が、70年の時を越えて、自分達国民のために政策を発動できる日本が見えて来るのではないだろうか。

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1.日本の法文化の前近代性ーその1ー
美濃加茂市長への控訴の論点(3)2015.03.31 Tuesday


日本の法治システムは、江戸300年の鎖国時代の「依らしむべし知らしむべからず」から、アジアでは例外的であろうが、主権を損なわずに、アジア中世世界の延長上に経過、展開をしている。明治の開国後、西洋近代型法とは異なる秩序原理をもって、太平洋戦争、そして敗戦と進み、その後GHQと言う占領軍の下で、英米法化を受け入れてきている。

この事の可能性と限界の双方に目をむけつつ、今回のように、裁判所が、故意に行う、国民への刑事犯罪者へと陥れる、名誉棄損、ある意味では生殺与奪権の行使について、その過ちが、将来にも繰り返されるならば、この国は事実上無法状態であろうから、人間の社会の現段階にあって、能うる限りの検討が必要であろう。

法を執り行うもの達の、法システムを動員して行う犯罪、それが度重なっていたのが、日本の歴史経過、そうも言われている社会である。私自身、そして国民ひとりひとりが、生殺与奪されないためにこそ、この度の控訴までの、弁護側、検察側の論点、そして控訴する論理について検討をして行かなければならないのであろう。

判決文の構成、そして証拠の精査、証拠ねつ造が、現世の利益を絡めて行う国家的詐欺行為として実行されているのか否か。

レヴィ=ストロースの指摘を受けいれれば、象徴機能が働く分だけ、実体を越えると思われるのが観念作用、法的な思考であろうから、それを実体、事実で、どのように切り取ってゆくのかが法廷での、事実関係の吟味であろう。そしてそれが判決文の下地である。そのための刑事訴訟法である。

この関係をふまえつつ、いかようにも曲げて展開できた論理、裁判所、検察の組織原則、組織形態について、近代法としての刑事訴訟法の由来、源から考えなければならい事態になっている

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2.日本の法文化の前近代性ーその2ー
美濃加茂市長への控訴の論点(4)2015.04.22 Wednesday

建て前と本音とは、常に眞逆である。建て前と本音を繋ぐものは、「義理と人情」であろうか。そして勧善懲悪、大岡裁き、どちらが善か、悪か、めでたく終わるべきであった。

しかし日本の国(お上)と国民(しもじも)の関係を振り返ると、いつもこうはならない。まず明治憲法下、国民は天皇の赤子、太平洋戦争では、一人息子を戦死、戦病死させた家、満蒙開拓の引揚者達、そして無辜の人びとの暮らす市街地への大規模空襲、広島、長崎、東京大空襲、戦後の食糧難とインフレ。国中がその中をさまよったわけである。

これらは起こるべくして起こった惨禍である。戦う武器、油(原油)の調達力を敵と比べ、作戦をみれば、負けること必定の戦争であった。国民総動員体制を仕上げても、建て前は建て前、人間は腹も空くし、病にも倒れるのだから、精神力だけで戦いきれる筈は無く、あれほど大規模の惨い死、惨状は想定されるべきであった。最後は原子爆弾と竹槍、国中がそうであった。

しかしその時、戦争で勝つこと以外を、考える事を禁じられた民、それが日本人であった。治安維持法が待っていた。禁じたのは情報操作した国家というべきだろう。国とはこのようにして国民に無残を強いる事ができる存在であり、国家権力を握ったが故の、ナチス、ポルポト、スターリン等の暴虐規模を思い返す事であろう。

日本の法文化については「義理」の文化などとも言われる。「行為者の責務、成さねばならぬ事、義理は、相手方の(履行による受益者)の要求を待たずに行為者が自発的に行うべきとされる。」そして「何をなすべきか(履行内容)についても、行為者自身がそれを知っているものとされるので、其々の状況において、相手方の事情や心情を忖度して、その期待に添うように特定する事が期待される。」と。また「本音と建て前」も大きな特徴であろう。

われら空気を読む文化の底流か。この文化において国と国民の間を律する憲法のあり方、そして安寧秩序のために、国が国民の犯罪を確定して刑罰を科す刑法、その手続きの中に生じる建前と本音、その二重構造の解消が大きな問題となっている。
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3.日本の法文化の形成過程―明治維新ー
美濃加茂市長への控訴の論点(5)2015.04.23 Thursday


近代日本における法制度の二つの大きな転換点は、明治憲法、そして昭和憲法の時であろう。今年は昭和90年である。

1853年ペリーの黒船来航、1858年「日米修好通商条約無勅締結」、列強、米欧5ヵ国との間に結ばれた修好通商条約(不平等条約)をまとめて『安政5ヵ国条約』と呼ぶが、この不平等条約の改正のために必要条件となった「近代法制度の構築」が急がれた。

国内各勢力(幕府・各藩・下級武士・朝廷)の抗争を経て、1867年大政奉還、そして早くも明治4年(1871)司法省設置、明治5年初代司法卿は江藤新平、やがて刑死、明治7年(1874)4月13日の後、14年(1881)の政変、そして15年伊藤博文の憲法調査でプロイセン風の明治憲法案へと向かう。そして法典論争を経て民法典31年、商法典施行32年がなった。

この明治14年の政変時、勅諭を発して10年先の国会開設を約束したが、その末尾には「若しなお故(こと)さらに躁急を争い、事変を煽し、国安を害する者あらば、処するに国典を以ってすべし」と言う有名な訓示が付け加えられ、民間の自由な憲法論議が大いに抑えられたという。

明治期の喧々諤々たる法典論争と思いきや、この勅諭を受けた自由民権運動は、憲法論争から民事法(国と国民の関係ではなく、国民同士の関係を律する法)のあり方へと論点移動。経典論争とは民事法を巡る論争であったのだから、憲法論争、国家と国民の関係をどう定置するかの議論は、この国ではされずじまい、欽定憲法が発布された。

そして1917年ロシア革命、1929年大恐慌の間、1925年(大正14年)に治安維持法を立法している。これが昭和16年(1941年)3月10日、同年12月8日の英米への宣戦布告を控えた情勢下で、国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として全部改正され、 天皇の勅令により当時は日本の植民地であった朝鮮、台湾、樺太にも施行され、独立運動をも弾圧している。

そして日本はこの体制下、大本営の発表する以外の世界情勢を聞く事も、見る事も、言う事も禁じられていた中で、一億玉砕も辞さないという国民総動員体制下、1945年敗戦を迎えた。玉音に膝まづく、痩せたわれわれの父母達の写真の通りである。
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4.日本の法文化の形成―第二次大戦後の新憲法ー
美濃加茂市長への控訴の論点(6)2015.04.24 Friday


そして敗戦後、日本国民はGHQ主導の民主憲法を与えられた。進駐軍の日本占領の目的は、戦争直後の軍国主義の壊滅、民主主義社会へ、を大きく転じて、1947、8年にかけてソ連封じ込めの累(とりで)と転換されている。

この転換は軍国主義を担った戦犯の刑執行を止めて、この人財の活用によってなされており、生き残ったのが戦前の治安維持法を執行した集団、体質である。

ここに1947年施行の裁判所法、検察法は日本の建前、本音としての被疑者取り調べ手法が継承されて、起訴便宜主義、特捜捜査、判官交流は本音の部分として、建て前と本音が着々と動く二重構造的法システムへと向かったと思われる。この思想、路線は、現下の安倍内閣の政策と重なっている。「依らしむべし知らしむべからず」、「特定秘密の保護に関する法律」、「取り調べの全面可視化反対」である。

だがここで過度の自己否定に陥らずに見渡せば、今から140年以上も前、明治の初めの日本で「国の富強のもとは国民の安堵にあり、国民の安堵のもとは国民の位置を正すにあり」と、初代司法卿江藤新平は語るのである。

「国が富み栄えるためには、国民の安堵がある事」そして「安堵のもととは、国民の位置を正す事にあり」と言うのだが、この位置を正すの中身は「国家の責任において国民の権利と義務を確定し保証しなければならない」との理解がある。国の富み栄えのもとは国民の安堵、国民の安堵とは、国民の位置が正されている事、この意味が大切であろう。

佐賀の下級武士江藤新平は、ここに一般国民、庶民の側を向き、人民主権の原点を示している。しかし明治7年(1874)4月13日、この江藤は佐賀の乱の後、佐賀城に設けられた便法的な臨時裁判所の判決で即日梟首、41歳であった。江藤を葬ったのは大久保利通との疑いは深い。

国と国民の関係を正す事、その事が国民の安堵のもとであると江藤新平は言う。国民の安堵こそ富国のもとであると言う。おどろくのは、この考え方は小沢一郎の「国民の生活が一番」と同じ発想、思想であることである。
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5.法律とは何だったのか?ー
美濃加茂市長への控訴の論点(7)2015.05.14 Thursday


@西欧と非西欧の歴史的係わり

レヴィ=ストロース(ユダヤ系のフランス人)は、世界中のあまねく民族集団にみられる婚姻規則、インセスト・タブー(近親婚の禁止)について、独創的な見解を述べている。

この規則は、自集団の女性を他集団に娶せる事によって、婚姻による女性の他集団との交換を通して、次世代、次次世代に渡って他集団との親族関係(親族、姻族など)を形成する、従姉妹同士となり、叔父・叔母となり、互いの交流を促してゆく規則だとする。こうして人間は、数世代に渡って食料を、婚姻相手を、情報(文化)を交換しあう各集団の関係を造り、その交流の中で自らの命を守り、文化を繋いできたという。

人類はその50万年の歴史経過のなかで、各親族姻族の集団の様々な規則(文化)を生じせしめ、集団を生きる人々を守り、あるいは拘束し、強者と弱者を抱え込んで今に至っているとも思う。古代国家内部、封建時代の領地、そして絶対王政の時代、神に与えられたと言う王権が宣する法律、そして庶民の習俗、慣習、規範などなどと。

やがてヨーロッパは近代を迎える。近代ヨーロッパの市民達は、我儘な税金のとりたて、反対する者を投獄、拷問、処刑する王権に対して抵抗する中から、王国とは異なる自己利益をもつ自分自身を自覚する。近代的な市民となって、国と自分の関係を問いかけた訳である。

その問いには、「人権」「自然権」「社会契約」という答えを導いた訳だが、この答えを導いた考え方こそが、近代的自我と言う、合理的理性的に外界を理解することができるという、人間の精神活動であろう。国と国民の間には異なる利害、対立する利益があり得て、その為に国民は法によってその人権を守られるべきであり、国家は法によって律せらなければならない。国とは権力装置であった。

それ以前のヨーロッパは、15世紀まで十字軍は敗走し、ヨーロッパ世界の西端のイベリア半島グラナダ(スペイン)は、無血開城(1492年)してレコンキスタ(再征服運動)が完了するまでの700年間も、イスラムの都として栄え続けた。そして東側、東ローマの首都コンスタンティノープルはオスマンに攻略されて落城(1453年)、イスタンブールと改名、キリスト教会をイスラム教徒のモスクへと改造して、20世紀(1922年)までイスラムの都だった。ヨーロッパ世界はイスラムに攻められる側だった訳だ。

しかし、ルネッサンス(14世紀のイタリア、15世紀の最盛、16世紀へ)、科学技術の進歩 (15から16世紀)、宗教革命(16世紀1517年のルターの95条の論題)、大航海時代(15世紀中ばから17世紀中ば)へと時代は展開し、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸へ、インドへと植民地主義的な海外進出が始る。とうとう1571年のレパントの海戦で、オスマン帝国を破ったスペインは、1580年ポルトガルを併合、「太陽の沈まぬ国」と謳う、絶対王政の最盛期を迎えたわけである。

西欧社会の圧倒的な技術的、政治的優位が形成されて、1492年コロンブスのアメリカ発見に始まるアメリカ先住民の奴隷化、絶滅に近い状況となり、次はフリカ人を運ぶ奴隷貿易(15世紀から400年間)、インド亜大陸の植民地化へと世界史は展開する。

これらを可能にしたのも、絶対王政を倒し市民革命を成し遂げ人権概念を導いたのも、それこそを合理的な近代的自我であると言わざるを得ない。しかし、その光と影がある。

A西欧近代の 光と影

近代ヨーロッパの市民達、絶対王政の国家に対峙して、王権とは対立する自己利害を自覚し、プロテストする意識こそが、庶民同士の礼儀作法とは異なる「国家と個人の対立関係」を、それに対抗する「人権」を掲げさせたのであろうか。行政権の恣意を抑制する原理としての「人権」「自然権」「社会契約」は、何ゆえに人間は家族や親族や隣人に対するのとは異なる態度をもって、国家に向き合わねばならないのか、その問いであり答えでもあろうか。

われわれ東洋では儒教的な倫理が重んじられ、イスラム法はアラブ世界の人々の生活を覆っている。イスラム法は砂漠の商人の商道徳の体系であり、日本では江戸以降は「儒教」の影響下で、世間一般の対人関係上のあるべき姿を、「義」(利欲なしにやるべきことをやる)、「礼」(「 仁 (おもいやり)」を行動化し、礼儀を重んじる)、「智」(学問に励む)、「信」(誠実で正直、約束を守る)などとして、重んじられている。

これらは西欧的な自己利益最大化を軸にする近代的自我の原理とは対極である。イスラム法(シャーリア)は六法全書と国際法を合わせたような性格を持つそうだが(それは預言者ムハンマド自身が軍の指揮官であり国家元首であった事が大きく関わっている)、イスラム法では異教徒との戦闘において、異教徒に「ジズヤ(人頭税)を払う」と言われてしまうと、カリフ(イスラムの王)には講和を拒否する権利がないと言う。ムハンマドは幼少時からの砂漠の商人であり、イスラム法は基本的には商人の倫理体系なので、お金を払ってもらえば対等な取引関係でもあろうか。

このような感覚は、15世紀のアメリカ先住民がスペイン人を迎えて、遠くから来た人々のために席を空けて歓待しようとする事とも通じると思われる。しかしながら異教徒は奴隷にすべしと明文的に許可を出すのがローマカトリックであり、アメリカ先住民はこの善良なる姿勢によって、虐殺に次ぐ虐殺を有効に防ぐ事はできず、絶滅へ、奴隷労働へと追いやられた訳である。

アメリカに渡ってきた西欧人の「フロンティア」とは、アメリカ先住民を野生動物の如くに追い払った大地であったのだから。

B法律(憲法、刑法、民法)と私達

近代的自我、その合理性は、強大な国家権力との対抗関係においても有効であり、この思考が封建的な身分社会を突破せしめた。しかしながらその影の部分、非合理的な人間、遅れた人間を支配し、物のように利用する事も自己利益最大化の内側に置くのであり、こうして西欧近代は世界を席巻したのでもあろう。

典型的な近代主義、市場原理主義的なアメリカ一極支配する今日、近代的自我の根幹たる自己利益最大化の光と影、この事を念頭に、大きな規模の人権侵害装置、税を徴収して行う国家装置の前で、今私達は、建て前と本音、義理と人情を使い分ける政治家、マスメディアの本音を意識的に読み込まなければならない。

私達は平場での隣人との間での「礼節、義理」とは別の論理、態度を「国、政治」に対して確立しないと、自分達の生活と次世代を守りきれない時代ではないだろうか。国家との対応関係は上下関係でもあるので、平場の隣人関係とは異なる論理が必要である。私達国民が国民個々人の自己利益に軸にして考えて、選挙、政治行動を進めなければならないのだろう。隣人への礼節と、政治の論理は別物。ごっちゃにしてごまかされそうである。

平場の隣人に対しては性善説、上下関係にもなる国家に対しては性悪説程の違いが必要である。切り分けが必要な時代になっている。

国家と国民の間は憲法、国民と国民の間は民法、そして刑法は国家が行う社会の安定のためにする犯罪の処罰。しかしその犯罪の事実関係は嘘の数だけあり得るので、嘘を限定する証拠をどう扱うか、それが刑事訴訟法である。それぞれの法律の領域によって、国民は性善説にも、性悪説にも立たざるを得ない。

今回の清々しい美濃賀茂市長への起訴、無罪判決そして控訴は、国民の前に何を顕かにしているのだろうか?
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6.美濃賀茂市長の収賄嫌疑と事実関係ー
美濃加茂市長への控訴の論点(8)2015.05.25 Monday


嫌疑と事実@(藤井市長の人柄)

藤井市長は市議選でトップ当選、2年半後2013年6月2日の市長選挙で自民党推薦の候補(58歳)を9138対11394で破る。学生時代に東南アジア諸国を旅して歩いた経験を基に「現場主義が必要不可欠」と自転車で市街地を走り回る選挙戦を展開。地元経済の停滞からの脱却を柱に掲げ、「トップセールスで企業を誘致し、産業活性化を成し遂げる」などと訴え、前市長の支援も受け、幅広い世代から支持を集めたという。そしてその3日後には幅広い支持を集めようと自民党に入党するなど柔軟であり、右翼、左翼の枠を超えている。

62日間の拘留(2014/6/24〜8/25)を耐えた後の会見では「父親も警察でありましたし、私も市長として地元では事件の前後変わらず、警察官の方々に支えられて市民の安心安全を確保しておりますし、私の逮捕勾留中も現場で対応してくださる警察官の方々は真摯に対応してくれました。そういったことからしても、恨みとかがあるわけではなく、今後このような事件がないようにしっかりと変えるべき点を変えていただきたいという思いです。」と。

嫌疑と事実A(4億の融資詐欺師)
その容疑は30万円の収賄、市長に当選する直前(区議会議員時代)に、学校のプールの水を災害時に有効活用できる装置を導入しようと、この装置を扱う業者nに仲介者を通じて話を聞いた。ところがその業者nは、金融機関に架空の工事を受注したと偽って融資金を4億近くも騙し取るという詐欺師であった。

業者nが自分に不利になる贈賄自供をわざわざしたその理由について「本当の反省をするためには全部話さなきゃいけないし、ゼロになって社会復帰ということになるんだったら、やっぱり全てを話さないといけない」と涙ながらに公判にて証言したが、それが全くの詐言であった。同じ中村警察署在監時に隣房に在監していたO氏が、後になって、当時の業者nの実情を(あまりの酷さにO氏が義憤にかられて)、業者nがO氏に宛た手紙によって明らかにしている。
 そこでは業者nは勾留中の身でありながら「人材派遣の仕事」と称して「韓国のプロモーターと店との間で、毎月の給料から上りをはねる仕事」をしようと考え、そのための資金管理をOの内妻に手伝わせることを、再三にわたって手紙でOに依頼をしていたこと、中村警察署の留置場に在監していた頃から、詐欺まがいの仕事で名前を使えそうな人間みんなに声をかけて、名前を借りようとしていた事が暴露されている。

嫌疑と事実B(不自然な争点)
検察側冒頭陳述によると、現金の授受は1回目がファミリーレストラン「ガスト」美濃加茂店で2013年4月2日10万円、2回目が25日名古屋市内の炉端焼き店で20万円となっている。ところが犯行現場であるはずの、この両店の店内の状況を明らかにする実況見分を捜査期間に行わないまま、検察
は藤井市長を起訴している。飲食店(自動販売機のそばの喫茶、ガスト)では当初3月警察では二人だけと言う自供内容だったが、5月にはレシートから同席者が明らかとなるに及んで自供変更、「同席者もいて三人」と変わり、この時期に取り調べが検察へと移された。この同席者に贈賄現場を見られないようにするには、同席者が席を立った時でないと現金は渡せないために、同席者が席を立ったか否かが大きな争点になる。ーー−同席者は倒れるまでも厳しい取り調べを受けた。

嫌疑と事実C(自供を維持させる検察と業者nの取引)
ところが業者nが自供した融資詐欺事件では、検察は、自供4億近くのうち、わずか2100万円しか立件・起訴していなかった。そこで郷原弁護士が詐欺事件の立件・起訴の範囲を最小限にとどめようとする業者nと検察の共同歩調、虚偽の贈賄事実の自白維持の為の動き、その可能性を察知して、融資詐欺の供述調書の開示を求めた。(証拠は検察の一存で隠す事ができるのが日本の法廷である)

開示して見ると、業者nは、多くの地方自治体・医療機関等から浄水装置を受注し、その代金が入金予定であるように装い、送金元の名義を偽って受注先から自社の口座に代金が入金されたように仮装するなどして、銀行、信用金庫など10の金融機関から、借り換え分も含め総額3億7850万円を騙取していた。その融資の多くがQ市信用保証協会、R県信用保証協会等の信用保証付き融資、関係機関の代表者印等を偽造、受注証明書、契約書等の公文書・私文書を偽造している。
 その中には、美濃加茂市の小中学校への雨水浄化設備の設置に関して、同市小中学校への設置に向けて営業活動を行っているに過ぎないのに、同市教育委員会委員長の公印を偽造し、同委員会名義の発注書を提出して、美濃加茂市において設置が決定され、工事が発注されているように偽って、J銀行Z支店から4000万円の融資を受けたと言うものが含まれている事が判明、郷原弁護士側がこの部分を告訴した。

そこで初めて検察は6か月以上前から放置していた融資詐欺の捜査を再開させたが、4000万円分については起訴(美濃賀茂市関連部分)だが、5700万円分の融資詐欺については不起訴とした。その不起訴の理由は「嫌疑不十分」だが、しかしこの事件では、業者nが藤井市長への贈賄を自白したのとほぼ同時期に融資詐欺全体を概括的に認める供述調書が作成されており、その中身からは嫌疑不十分とは言えない。

 検察官の論告は「詐欺罪として起訴するに当たっては、同罪の構成要件である欺罔行為や錯誤の成否を検討する必要があり、そのためには、被害者を含む関係者の事情聴取や資料入手が必要不可欠である上、返済状況や被害者の処罰意思も考慮することになる」との一般論だが、詐欺の手口は金融機関に対して、架空の工事を受注したと偽って融資金を騙し取るというものなので、「欺罔行為」も「錯誤の成否」も問題になる余地がないであろうと郷原弁護士は指摘している。(悪意は明確、被害者は金融機関、特定されている。)被害者の金融機関側には圧力をかけ処罰意思を左右できる検察であろう。

嫌疑と事実D(検察官が詐欺師に罪の軽減を餌として嘘の供述を維持させていると想定すると矛盾が無い。)
「悪質極まりない犯行の総額4億円に上る融資詐欺の起訴を6100万円の被害額の事実にとどめざるを得なかったのは、業者nと検察官との間に、融資詐欺の起訴を最小限にとどめることの見返りに、贈賄自白を維持し美濃賀茂市長の公判での検察官立証に協力するとの明示又は黙示の約束があり、弁護人の告発によって4000万円の告発事実についての起訴は行なわざるを得なかったが、さらに5700万円の追起訴を行えば、量刑が、中林が許容できる限度を超え、業者中林が当初の約束を覆し、検察官立証に協力しなくなる恐れがあったからとしか考えられない。」と。

もし検察が真実を追求しようとすれば、贈賄側、収賄側と言う、写真のポジとネガの双方から真実を解明するための証拠を追求するのであろうに、初めから融資詐欺罪に関連する事実関係を本件の調書から排除しようとする取調官である。(業者nに対する融資詐欺の処分状況、捜査・処分の見通しについては、証拠開示ないし検察官の回答を求める弁護士の請求で初めて発覚したのであり、それがこの事実関係である。)

嫌疑と事実E(関口判事と検察組織)
さらに業者nは、証人尋問で、担当した若い女性関口検事から、「絶対藤井には負けないから、中林さん最後まで一緒に闘ってくださいね」というようなことを言われたこと、市長側弁護士から聞かれることに対して自分が答えられないことが「失敗」だと思い、「失敗は許されない」と思って、「必死に」やっていたことを認めている。
 業者nは何としても藤井市長の金銭受領を拵えようとする関口検事のストーリーと辻褄を合わせるために、そのストーリーが嘘故に「必死」とならねばならないのであり、市長を犯罪者とするという目的に沿ってする解釈、類推をくり返す関口判事の弁論内容は、現職の市長を犯罪者として陥れようとするあまりのこじ付けを展開するもので、詐欺師nとの二人三脚の道行き、その実行と言わざるを得ない。

物的証拠は無いところを、悪質な詐欺師の自供に沿ってストーリーを展開するあまり、被疑者、関係者を人質のように拘留して縛りあげると言った捜査手法で嘘を通し、市長メールの文言をさまざまに解釈して、飛躍類推、非常識類推を展開している。結果、現実場面との不整合が出ているのだが、それでも検察の権威や起訴便宜主義という権能を背景にする脅しで、強引に進める。この若い関口検事は、組織が描く道、それ以外の想定ができないのであろう。

同世代の市長を陥れて出世をもくろむ、若い世間知らずの女性エリート検察官。東大出でもあろうか最高裁事務総局に純粋培養リクルートされ、規定方針遂行のためには嘘も、騙しも平気である。これが日本を担う若き高級司法官僚の姿であった。

戦後、日本の司法は、戦後民主憲法を頂き、司法権は行政権から独立し、法曹職の自立性、弁護士会の自治をいれた。また刑訴法は大陸法系から英米法の当事者主義に切り替わり、日本は民主国家に生まれ変わった筈であった。しかし検察、裁判所の権威で、詐欺師と同道、現職市長を鼻たれ小僧呼ばわり、被疑者、関係者に精神的拷問を課す人質司法そのものである。(今回も取り調べを受けた人が自殺しているが、因果関係を証明できれば拷問による殺人ともとりうる。)

一つの官庁に匹敵するような国民の人権を左右する大きな権限を与えられていると、自ら認めつつ行う検察の被疑者への精神的虐待、非論理的法解釈、詭弁が実行され、代用監獄はDAIYO-KANGOKUとして国際用語となっている程、世界に注目される特殊な日本的刑事司法文化の有り様、日本の特捜組織、検察、裁判所(身柄拘束は裁判官の判断)の現在が表面に顕れている。

さらに無罪判決は朗読に2時間半以上かかる丁寧な事実認定、これを不服、控訴する検察組織は、それまでの名古屋地検関口判事らの暴挙を組織的に容認し、よしよし。同じ穴の狢達にも見える。実際の事実との乖離が明らかでも押し通し、その為に法的知識を活用、犯罪幇助(業者nはわずかしか罰せず)をも行う日本の刑事司法は、若い法曹エリートを純粋培養リクルート、まるで司法マフィアである。

目をつけられたら、我々国民は、隔離、拘留されて法的知識は乏しく抵抗は難しい。ほとんどの国民は司法マフィアの餌食であろう。(弁護士のブログ、その他を参照、抜粋)
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7.裁判の中で見えてきた事―検察・裁判所の癒着と国民の立場ー
美濃加茂市長への控訴の論点(9)2015.06.19 Friday


@検察は真実を求めず

この事件では検察側は事の真実を追求していないと言えよう。収賄事件において、贈賄と収賄の事実関係は写真のポジとネガ、双方を組み合わせて実像が浮かび上がるのだから。

贈賄側の業者nの人となりを映している、自供した悪質な贈賄側の犯罪・融資詐欺の事実関係は全体的に矛盾なく、容易に証拠固めできる構造である。被害側は特定されている銀行であり、通帳と言う記録文書、物証もある。しかしそれを取らず、放置する事が、法解釈と、日本の裁判制度と、悪質な検察官三つ巴の結果として許され、そう執行された。被害者の金融機関側には圧力をかけ処罰意思を左右できる検察であろう。これが現下日本の検察、裁判所の現実である。

一方収賄側に対しては、現職市長を2か月に渡る拘留を続けた。この間現職市長の身柄拘束を解くために市長弁護士側の、「6月24日の逮捕以来、@勾留に対する準抗告、A勾留延長に対する準抗告、B勾留取消請求、Cその決定に対する準抗告、D同棄却決定に対する最高裁の特別抗告、E第1次保釈請求、F第2次保釈請求、Gその却下決定に対する準抗告、H第3次保釈請求、I第4次保釈請求と10回にわたる弁護人の身柄釈放を求めるアクションは、ことごとく却下・棄却」であった。

刑事訴訟法1 条 [法律の目的] では、「この法律は、刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする。」と。

この前段は、目的達成の方法・あり方(解釈・運用の指針)だが、「公共の福祉の維持」+「基本的人権の保障」を全うする方法、これによる事が求められている。公共の福祉とは刑事手続において犯人を特定・処罰することにより、侵害された法秩序を回復することとされる。

あらためて刑法の目的は、犯人を正しく特定し・適切に処罰する事により犯罪抑止力が社会に醸成されて、社会の犯罪の発生が抑えられる事、公共の福祉が維持される事であろう。そうでありたい。誤判断、冤罪などは真犯人を逃がすので犯罪促進的、反社会的、刑法の存在理由を壊すであろう。

被疑者人権の究極の侵害は冤罪である。かつ冤罪は真犯人を逃がすので刑法の存在理由を覆す。この緊張関係において「公共の福祉」と「被疑者の人権」のどちらに重きを置くべきか、この二つを対立的な問題として捉えて、どちらに重きを置くか、そこで学説は分かれるのであろう。

A刑事訴訟法の原則
この二つを念頭に、前段の運用上の指針の下で後段では、「事案の真相を明らかにし」「刑罰権を『適正』・『迅速』に適用実現する」としている。真実をどう顕かにできるのか、適正、迅速を求めて関係者、被疑者の人権をどこまで侵害せざるを得ないか、この二つのバランスは、下記の@〜Cの法の原則において求められねばならないというのである。

刑事訴訟法の原則:@捜査比例の原則A強制処分法定主義(憲法31条、刑事訴訟法197条1項但書)B令状主義(憲法33条、35条、刑事訴訟法199条、218条等)C物証中心主義(憲法38条)である。

しかしこの事件で明らかになった事は、Cの原則の捜査の中心であるべき物証だが、それがこの事件では皆無、詐欺師の自供だけである。また@捜査比例の原則だが、現職市長を2カ月の拘留するに足る、犯罪容疑とは30万円の収賄容疑、その背後にあるべき膨大な収賄があるべくもない藤井市長の28歳の政治歴である。

詐欺師の自供だけを証拠に、現職市長をマスコミ総動員体制で逮捕し、この逮捕状は、警察が裁判所に証拠を揃えて逮捕状を請求し、 裁判所が信じえる証拠と判断した場合に出されるので、この事件で裁判所は詐欺師自供(物証のない)だけでも逮捕、この自供を証拠となしたのである。

「裁判所が、しばしば”令状発行機”と揶揄されるのも、こういう対応が頻繁になされているからだ。」とジャーナリスト(江川詔子氏)は指摘する。検察請求に対し裁判所はそのまま通す事が常態、人質司法は検察・裁判所の癒着で完成している。

現職市長を長期拘留(6/24〜8/25)する裁判所の指摘する理由は「逃亡、罪証隠滅のおそれ」「被告人と関係者が口裏合わせをする」だが、保釈請求を拒んだのは裁判官の権限だが、事件の証拠の範囲を裁定する権限も裁判官の権限という日本の制度である。

証拠隠滅、口裏合わせなどは、具体的な証拠事実に照らして判断する必要があろうが、証拠の扱いも裁判所主導で決まる中で、人質司法を維持している検察、その検察と裁判所が一体になって有罪、冤罪までをひた走る事ができるのではないか。刑訴法の原則は絵に描いた餅になっている。

http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/booklet/data/daiyou_kangoku_leaflet.pdf)
(2005年国連総会の下部機関として、加盟国の人権状況について普遍的・定期的審査(UPR)勧告を行う人権理事会が設立され、日本政府は1999年(平成11年)に批准した拷問等禁止条約に基づいて報告書を提出。2008年10月には委員会の審査ならびに総括所見が発表された。その中で日本の特殊な刑事司法取り調べ慣行について批判と驚きが表明され、@厳密な被疑者への取調べの時間の制限やこれに従わない場合の制裁措置を規定する法律 A取調べの全過程の録画機器の組織的な利用 B取調べ中の弁護人の立ち会いの権利化、という具体的な措置の採用が要求されたと言う。(尚会議の模様は、国連人権高等弁務官事務所のHP 上で中継され、ビデオはウェブ上で閲覧できますと言う。)

B控訴する検察組織の事情を妄想する。

冤罪は司法による重大な国家犯罪である。今回は、被告側の弁護士が元特捜であり、マスコミの検察情報拡散に先手を打ちながら、詐欺師自供の矛盾点、有罪誘導を行う検察の動きに先手を打ち、あるいは即座に対応して公判を進める事ができたので、人質司法で起訴を決定した検察に対して、裁判官は99.9%の有罪率の中での0.1%の無罪判決を出し得た。しかしこの緻密な判決に対して、検事総長決済であろうが、この矛盾に満ちた詐欺師自供を丸のみ、検察を支持して控訴に及んだ。

公訴理由は「メールの開明が不十分」だと言う。証拠が無いにもかかわらず、収賄があったという前提なので、その時期のメールのやり取りを証拠扱いにする他ない事を物語るもので、検察が公然と矛盾だらけの詐欺師の自供を、組織的に支持、丸のみしている事を認めている。

言葉の彩でどちらにもとれる言葉づかい、メールのやり取りを証拠として扱う検察官の弁論が、英米型の刑事訴用法下で行われている。原則などなんのその、被疑者の生殺与奪を握りつつ行う取り調べ、圧倒的に有利な立場、高みから、国民を被疑者とする事ができるので、その、家族、関係者への悪影響をちらつかせながら行う取り調べ、それが常態、公開の法廷が恫喝のための手段となっている。

これでは全国の自治体の長は、積極的な地方行政に邁進するに怖さが漂う。詐欺師にとっては「有名な政治家に贈賄しました」と言えば大丈夫か、罪も免れそうだと、詐欺師勇気づく事態ともなろう。

検察が詐欺師犯罪の証拠を理屈をつけて採用せずに放置する事は、結果として詐欺を最大に幇助して、詐欺師、「やり得」である。司法機関ぐるみ、検察、裁判所双方が協力して詐欺と言う犯罪行為を取り逃がす計画をし、それを実行して、その行為を激励、励ましているようだ。これでは刑法自体の存在理由、犯罪抑止の社会的任務、安寧秩序を自ら溶解せしめている日本の刑事法廷である。

しかし検察も人間組織であり、この経験は、検察組織に様々なトラウマを生じせしめて、無意識の硬い防衛機制をも引き起こすのではないか。事実関係の解釈、法的推論に過剰な逸脱、非常識の合理化、マスコミ操作、情報開示拒否などと、極端に走る下地となり、大きなリスクを背負っている組織ではないだろうか。国民にとっては危険である。

今回、刑事司法システムは、検察情報をそのまま報道するマスメディアを使って、市民の意識を操作、美濃賀茂市長を犯罪者に落とそうと動いた。警察と緊密連携している事は、公訴翌日に警察が公訴の書類内容をもって美濃賀茂市職員に脅しめいた電話をして、市長の孤立化を狙っている事からも伺える。

このような冤罪を検察、警察ぐるみで進めている事は、検察側で仕事をした弁護士の目が無いと暴く事はできなかったであろう。検察官の捜査過程を裁判所が支援、検察判断に追随する裁判所(機関)となっている。この手法で小沢一郎、元福島県知事佐藤栄佐久、植草一秀、鈴木宗雄、三井環等々は、社会的地位を外されていったわけである。

検察は、自縄自縛状態である。冤罪の悪行が世間に知れ渡るが故になおさら、無意識的、意識的な防衛機制を働かしめて、自分達の組織の権威付けのために動く。これが日本の高級司法官僚、最も赤裸々に国民の権利を奪う事ができる検察、司法当局の姿であった。

C三権分立を犯し、三権を支配する司法マフィア
市民に選挙で選ばれた市長を、「鼻たれ小僧」呼ばわり、詐欺師自供だけを理由にして、わずか30万円の収賄容疑を着せて、逮捕した司法権力は、行政権を覆す事も出来る存在として君臨している。実際に小沢、鳩山政権は覆されている。

もしも小沢一郎があのまま要職にあったならば、福島原発の対策はレベルが違ったであろう。宗主国アメリカが首相官邸に乗り込んで指示する中であっても、菅直人らとは違う官僚の使い方があるだろうから、4年を経ても、世界の海(太平洋)に汚染水を垂れ流し、福島の人々、子供の甲状腺癌、今後の手当には見通しがたたない今現在とは違ったと思われる。あの時点で、廃炉決定をし、国家的規模の対策を打つ事ができたならばと無念である。

植草教授があのままアメリカ市場原理主義による、日本の富の収奪計画を暴き続け、広く国民に拡散出来ていれば、今のTPPの議論も、日本的雇用慣行、年功序列や終身雇用への規制緩和の動向も異なっていたであろう。国内の第一次産業(農業、漁業等)、医療システムを外国資本の草張り場として投げ出す、世界中の市民の生活を市場の論理に巻き込むアメリカ市場原理主義者の要求を、進んで受け入れる安倍政権とは、異なる道が模索されたに違いない。

三井環氏が告発予定だった裁判所の裏金が事実と認定されていたら、今回の様な司法マフィア的な、有望な市長抹殺策動の前に、司法機構の組織的出直しが求められていたかもしれない。民主党政権は小沢の下で生きながらえ、新しい日本へと動いていたかもしれない。

このような日本の司法権は、国民の頭上に、選挙の決定も「何のその」と君臨しているのであった。現役の若い市長も弁護士いかんでは首を挿げ替えられたであろう。時の首相、政権(鳩山、小沢)の首を挿げ替える事ができた司法権であり、この事は彼ら司法官僚が行政権を凌駕している事を示す何よりの実例である。加えて違憲立法審査権を持つので行政権(国会)をも凌駕する。

ここに事実上、日本には三権分立は消滅し、事実上司法の独裁が可能な権力システムになっている事が分かる。この司法権力が、戦後のアメリカの進駐軍の方針変更の下で、旧特高警察関連のマンパワーをつかって復活したのだが、従ってその元締めは、アメリカサイドにあり、民主国家幻想、発達史観幻想を使って、マスコミ総動員の国民洗脳、左派はガス抜きの為の補完物として取り込まれてきたのではないだろうか。

戦後の松川事件などの冤罪事件、疑獄事件、田中角栄、小沢一郎などと、裁判所と捜査当局の二人三脚の冤罪舞台をマスコミが演出、戦後の日本の方向を決めていったのではないか。

今、検察司法官僚、司法裁判所組織が、社会の安寧秩序の維持という、自らの存在目的、根拠自体を、自組織の利益、体面のために覆すと言う逆説が次第に国民の前に明らかになっている。アメリカ経済の窮迫、世界の経済情勢の変化の中で、日本をより活用、収奪せんとするアメリカ市場原理主義の下で、司法機関(裁判所・検察)司法高級官僚組織は、今なお戦勝国アメリカによる日本国民支配を隠蔽、継続するために動く、亡国の司法マフィアとも見える。
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8.法システムと言う考え方―
美濃加茂市長への控訴の論点(10) 2015.06.19 Friday


@法システムとは何か?

私達は法とは、憲法、民法、刑法などと、守るべき事柄を書いてある、成文法をイメージしている。法を守る、法に沿って行われている政治、違法行為などと。法律とは守らなければならない事柄、規範であり、違反すると罰がやってくる。

しかし法社会学では、法が社会の中で働く様子、社会と法の相互関係を、@成文法(法律)ばかりでなく、A法を社会の中で執行する組織(裁判所、法務省、検察庁、警察など)B法を解釈、運用する人間の頭脳(法曹職、マンパワー)という、三者の相互作用、法が社会の中で働いている様子を、法システムという循環系として、社会と法の相互関係を考える。

この三者のシステム、その流れを「法システム」として、下記のように図解できるという。
 法システム
  法規範
(ここでは成文法
  憲法・刑法・民法
   その関係法令)
  法機関
(立法府国会・裁判所・法務省
検察・警察など制度的しくみ
& マンパワー・法曹職)

 社会の中で、法が国民に対してどのような機能を働らかせているか、その全体像であろう。ここでの法は、成文法をさしており、「生ける法」と言われる社会内の慣習、習俗、道徳などは含まない。そして「生ける法」は成文法の外側を囲んでいる。

そしてここが重要だろうと思うが、「法システム」は実際に動いて社会に働きかける、その事を法の機能と考えがちだが、正確には二とおりに分けて考える必要があるという。

「一つは法システムが達成するべきものと考えられる効果・目的であり、もう一つは、ある国の法システムが実際にある仕方で作動したり作動しなかったりする事によって、実際に達成されている(あるいは達成すべきなのに、達成されていない)効果・目的である。』という。

「これらの二つは、いわば建前と本音に相当する。前者は、制度的・規範的な機能であり、後者は経験的・事実的な機能である。この二つが一致する事が理想であることは言うまでもないが、実際にはなかなかそうはいかない。 」(註1

こう言う考え方で行くと、戦後の刑事訴訟法改革、英米型の刑事訴訟法を受け入れながら、今回の美濃賀茂市長への控訴、そして冤罪の数々、世界にも珍しい国際用語として通用する代用監獄制度(「DAIYO-KANGOKU」 [ダイヨーカンゴク」)が継続されて当然となり、「証拠隠滅」「口裏を合わせる」「逃走又は再犯」を理由とする「人質司法」の生成と発展、そして背景要因が、司法システム全体の動きとして、「時間軸を追って」顕かにされ得るのではないだろうか。

戦後の松川、下山事件、多くの冤罪事件、田中角栄、小沢一郎を特捜捜査で失脚させ、経済学者植草教授、元大阪高等検察庁公安部長の三井環、鈴木宗男など記憶に新しい事件の顛末、法を道具として使いこなし、法システムを動かして行う、国政への干渉についても、法システムがどう作動し、あるは作動しなかったのかを考察する事によって、その動きの有り様は炙り出せると思われる。

戦後の日本の司法システムを動かし、法を道具として、法の解釈、社会への働き掛けの方向性をつくり上げる者達、そしてそれを全面的に受け入れ、正しい事として国民に拡散するマスコミ。その中で、日本の社会は、成文法とは異なる実態、証拠無き自白強要、その為に機能する人質司法が、習慣化してきているのではないだろうか。

そしてそれらの傾向は、@どのような法思考の積み重ね、A法機構の変化、B法曹職の質、と言う三者の複合システムとして生成、発展を遂げて来たかを考察する必要があると思われる。ここまで偏った司法を頂く国民は、この偏った動きを続ける日本の司法システムを回すエネルギーの源泉と構造、そのありようについて、いわば司法マフィアと言うべき現状の生成と発展を、「時間軸を追って」考えまわし、日本の刑事司法と国民の関係は、正常化されなければ沢山の不幸を産み続けるので、改めなければならず、その道筋を考えなければならない。

A近代国家

主権国家を定式化したのは、ルネッサンス以降、ボダン(1530-1596)だが、宗教戦争(ユグノー戦争)後の混乱期であった。道徳や慣習とは無関係に新規の法を任意に人為的に定立する国家、優越的な法の源泉としての国家が、1579年「国家論」において登場したと言う。時は16世紀、絶対王政へ向かうフランスである。「生ける法」=(国民の常識、慣習法等)と成文法は真逆もあり得る。

ここでキリスト教社会、西欧社会に定立された近代国家の、平場(ひらば)での対人関係、商取引などの習俗習慣、慣習法とは無関係に、近代国家の法、人為的に定立する法の源泉たる国家が定立された。そこでは国家と国民との関係を律する憲法が制定されざるを得なかった。立憲主義である。現下国会の安保法制を巡る、違憲論争との関連を含めて、論を進める必要もあろう。

人間の社会は、その人の行為の「正しさ」をめぐる評価の公的な基準として作用する社会規範を持っており、その「正しさ」が確かにその行為の社会における有効性、通用性・貫徹力に決定的な影響を及ぼすのであろう。「法は、まさにこの行為の正当性吟味という要求に答える制度的しくみであり、それに根ざして発展してきたもの」と指摘されている。

その中で刑法は国家が列記して罰すべき行為、犯罪を特定している。国家と国民の間の関係を直接的に実行するところの刑の執行を行うので、その被疑者への捜査は、国民の自由権を奪って進めざるを得ないために、刑の執行上の原則、刑法の解釈・運用の指針が刑事訴訟法として明示されている。

Bマンパワー、法曹職の質
日本では戦後、民主国家へと、民主憲法を掲げ、大陸法由来の刑法を英米法に変更して、行政権の優位に対して、司法に違憲立法審査権が入っている。しかし刑事訴訟法は変わっても、戦前の治安維持法を運用したマンパワーが、戦犯への刑の執行を停止されて活用された。東西冷戦構造が始まり、日本を反ソの砦にする為の、連合国側の地誌学的な要請であった。

この経過で生き残った、日本の刑事司法マンパワー、治安維持法を仕切った文化が「人質司法」と言われる司法刑事システムとして生成発展を遂げている。法システムの全体を動かす法思考を行う人々、この人々は自律的であり得たのか、戦勝国アメリカの意のまま、それを習慣化させたのか、彼達も日本的義理と人情の文化において、アメリカサイドの明示されない期待をも忖度しているのであろうか。

法システムを動かすマンパワー、法を道具として使いこなせる法曹職の動向が法システムをいかようにも曲げる事ができる。日本の刑事司法システムはその見本のように展開している。法曹職が専門家として行う法思考とは近代的思考様式の一形態であり、レヴィ=ストロースが指摘するように、ある限局された局面において可能ならしめる恣意的な論理かもしれない。それ故に向けと言われれば、いかなる方向へも向いてみせ、その論理的正当性を専門家として構成する事ができるのであろうか。

法思考のある形態を、法的技術となして、法システムを動かしているのが、日本の司法官僚である。法曹職の養成、司法官僚のリクルートの在り方が、法をある方向に恣意的に歪め得ると言う現実も、構造上ありえる。

法曹職の法思考、法の活用による国権(三権)の掌握、そして民主国家の装いの下に、戦勝国アメリカ市場原理主義の意を汲み、動き続けている集団が生成され、今に至っているのであろうか。それが「日本の裏側」というべき集団、「司法マフィア」というべき、冤罪、首相の首の挿げ替えを、必要に応じて行う事ができる集団であろう。美濃賀茂市長の事件では、その事実を彼達が、隠蔽ができなくなっている日本の司法官僚の現状を、露わにしている。

註1)六本佳平 『日本の法システム』P10 (財)放送大学教育振興会 2001年2月
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9.法システムの中の3つの要素(成文法・法機関・法曹職)ー
美濃加茂市長への控訴の論点(11)2015.06.19 Friday


@ 法曹職について

ところで、この法システム論は、法曹の役割について大変牧歌的に捉えているようである。社会の紛争解決ルールについて社会の求めるルールを法として創造する機能を持つ裁判官であり、法創造をする主体とされている。この位置付けは、法曹を優秀なコンピューターのように、社会の実態を正確に把握する存在として、法曹職は法創造をする役割を聖人君子にして、不偏不党、公平中正、公正無私な、明晰なる頭脳部として現れる。

しかし私は、このような牧歌的、発達史観的議論に疑問を抱きつつ、もう一つの要素、法創造をする主体の思考の偏り、証拠を判断する法曹職も、一定の価値規範性を抱えているという事実を考慮せざるを得ないと考える。さらには裁判官の自己利益(組織利益)優先性尺度を入れて、その判断を吟味する必要もあり得るのかもしれない。

どのような事実判断も、価値中立的な事実判断を生し得ることは不可能であると言う理解が、厚生経済学の分野での、マルティア・センによる公理分析手法を産んでいる。戦後の法哲学の最大にして最重要な論点は、ナチスの法制度の生成と発展についての議論の中に埋め込まれているのであろうが、法実証主義か自然法主義か、そして法実証主義であっても、法的事実を事実記述的に読みこむ中に、価値規範性、観念性を完全に排除はできず、一種の偏りを抱えざるを得ない。その事がハートの言う「第二次ルール」と関連するのかもしれない。

あるいは、それらを繋ぐとも言える手法が、センのどのような事実認識も、価値規範性から全く自由ではあり得ないと言う前提に立ち、事実認識において、不可避的に抱えられる価値規範性を明示し、その上で各事実判断の意味合いを比較検討し、事実判断をすり合わせようとする考え方であると解釈する事ができる。

現下市場原理主義的な法解釈については、買収、利得の上のせ等、法曹への現世の利益不利益提供によるコントロール、その軸が必要であろう。日本の高級司法官僚は、最高裁事務総局によってコントロールされざるを得ない構造が指摘されている。そして任用10年で行われる判事補達への人事考査は廃止されるべきである。

法システムを廻す人間の思考、選択に、不偏不党、学問的中立性をそのまま受け入れる事は危険である。アマルティアセンの手法にならい、法解釈、法機構改革、法改正の中の、価値規範性、言い換えれば法システムを動かす、動かさない事によって生じる本音の中の価値規範性を顕かにしなければならない。

そこには弱者の側の権利と命を守り、生活を守る色合いを込めるべきであろう。人間の社会は弱者こそが多数派なのだから。ここに今こそ、小沢一郎の言う「国民の生活が一番」が政治の要、これが重たいのであろう。

A法を執行する法機関の問題
1)三権分立が融解している

ところで三権分立を事実上溶解せしめているのが、判官交流による司法、行政の癒着であり、さらに特捜捜査による首相の首の挿げ替え(小沢一郎への起訴による鳩山内閣の退陣)が行われているのであり、ここに事実上、行政権を凌駕する司法権、その上違憲立法審査権を持っているのが司法権である。司法権は現下日本の統治機構を掌握していると言えるのかもしれない。

「小川敏夫前法相が退任記者会見で、在任中に検事総長に対する指揮権発動を検討していたことを明らかにした。野田佳彦首相の了承を得られず、見送った。」退任の記者会見でこの事を明らかにして小川元法相は、「慎重さを欠く「指揮権」発言」(6月6日付 日経社説)とされた。しかしである。

(指揮権発動を検討したのは、小沢一郎民主党元代表が強制起訴された陸山会事件関連、捜査報告書に虚偽の記載をした検事が市民団体から告発された事件だが、この検討に対してマスコミはこぞって「 検事総長への指揮権発動は捜査への政治介入を招きかねず、歴代法相は極めて抑制的に対応してきた。」との論調)
さらに「過去に発動されたのは1954年の造船疑獄の一度だけ。当時の犬養健法相が佐藤栄作自由党幹事長の逮捕見送りを指示した。その結果、捜査は頓挫し、世論の強い批判を受けた内閣も総辞職へと追い込まれた。」としている。

そして「虚偽報告書の捜査徹底が目的なら、指揮権を持ち出すまでもなかったのではないか。」などと見当はずれを言ってはばからず、拡散するマスメディアだが、しかし指揮権と言う制度の趣旨は三権のチェックアンドバランス(checks and balances)である。

なので行政権の側が自分達政治家を守るために発動した造船疑獄とは違い、今回は相手方司法による行政権側(政治家小沢)への介入への対応であり、行政側はむしろ積極的に発動して司法をチェックしなければならない。この報道は、指揮権制度の存在意義を放棄する事に等しい。検察の犯罪、検察の仕事の評価等、チェックを入れるための、せっかくの制度を放棄せよと言っているに等しい。

かくて検察の犯罪を裁く事ができる機関は、日本中に無くなる訳である。このようにマスメディアを使って国民を勘違いさせて、日本では司法権が、行政権、立法権を凌駕し、司法による独裁が固められ、戦勝国アメリカ側の利益の為に、国政が歪められてきたと言えるのではないだろうか。ここに国民は、戦後の民主主義国家幻想と発達史観幻想の悪影響は大きいので、これに見切りをつけて、日本の実態を直視しなければならない。

2)地検特捜部
また美濃賀茂市長を捜査して、詐欺師自供を有力な証拠として提示している、特捜組織とは戦後の戦後の闇物資の取り締まりに端を発している特捜組織である。その組織をいわゆる巨悪への捜査機関としてのイメージを作り、発展せしめ、マスコミによる巨悪報道、特捜幻想による洗脳であろうか。

巨悪とは何か?正義とはなにか?巨悪とは税金の分配に関与せずには遂行不可能である。内閣が提出する予算案の審議を行う事を基本的な役割とする国会(立法府)の予算委員会が、予算を審議、議決するのだが、ここに直接、間接に介入して特定の集団に分配をする事と考えられる。これは与党に属さなければ主役たり得ない。で、そうだから、公明党は与党の地位をどんな事をしてでも、手離さないのであろう。何でも有りかもしれない。

在野にある小沢一郎には起こし得ない巨悪、このストーリー設定の矛盾に私達は気付かねばならない。ここに日本的な勧善懲悪ストーリーが重ね合わせられているので、騙される。巨悪には、企業(贈賄側)と与党政治家(収賄側)の登場が必要なのに、自民党(与党)に類は及ばないと時の法務大臣が明言する程に、日本の司法は巨悪と共にある事が分かる。この形でどうして、日本の現司法システムが、巨悪を裁く事ができようか?

特捜システムが功を急ぐならば、非与党の人々となり、結果疑獄は捏造されて、現政権、巨悪が利する構造となる。そこでこのような部署は解体し、必要な案件が生じた場合はアドホック(その事の為に臨時で抜擢された人々のチーム、終われば解散)なチームを持って行えば、組織が自己展開して功を急ぐ必要を生じない。捜査の経過は公文書によって、後世、後輩に託される事ができる。

B人質司法の来歴
次に、判官交流という司法と行政の癒着、司法主導の癒着の排除は、三権分立せよと求める憲法にもかかわらず、その下で実行されてきたのだが、廃止したとの事だ。またぞろ忘れたころには復活しないように、楔(くさび)が必要であり、その背景は明らかにすべきであろう。

そもそも検察は法曹であって官僚であり、国家の指定する犯罪を、被疑者国民に対して立件する立場であり、国家官僚と司法制度の重なり合う機能を持っている。この事は「検察は法宣言機関(裁判所)ではない。しかし行政機関ではなく、両者の中間の司法行政官庁である。」と説明されている。

日本では平沼喜一郎が、1910年に大逆事件(明治天皇の暗殺計画事件)において、検事として幸徳秋水らに死刑を求刑し、今では冤罪死刑が執行されたとの大方の見方である。しかしこの後まもなく検察は、1913年4月、司法大臣の松室致と協力し、「裁判所廃止及名称変更ニ関スル法律」「判事及検事ノ休職並判事ノ転所ニ関スル法律」を成立させ、229人の判事・検事を一挙に休・退職とし、443人にのぼる異動を発令している。

こうして大逆事件の功績などから、1910年代以降、司法部内での検察権の独立が公然と実態化し、絶対的優位化したという。また疑獄の日糖事件(1909年)では、思想係検事を中心とした平沼閥が形成され、次第に拡大、政治化して行ったという。1915大浦事件(贈収賄事件)では、正式の裁判以前に、検事が第一次的に断罪してしまう「検事司法」のはじまりとされ ており、起訴便宜主義が、1885(明治18)以降「微罪不検挙」として行われていたのだが、これが1922(大11)に旧刑訴法全面改革で明文化されている。1921年、裁判所構成法改正で検事総長の地位が司法大臣、大審院長と同レベルに引き上げられ、1939年1月には平沼内閣が発足している。

しかし1941年治安維持法の前、帝人事件(1934)では、1937年石田和外の判決では「之ヲ例フレバ恰モ水中ニ月影ヲ掬セントスルノ類ニシテ」として冤罪が確定し、被告人への革手錠使用など、検察の人権蹂躙問題があばかれ、主任検事の恫喝「俺等が天下を革生(覚醒?)しなくては何時迄経っても世の中は綺麗にならぬのだ」と恫喝していた等に対して、世間は『検察ファッショ』と厳しい批判を浴びせた。」という。

この構図は、戦後になってからの特捜の「息込み」に通じるものがあり、検察特捜の風土を現わしているのではないだろうか。平沼閥の手法、疑獄捏造をして自らの対抗勢力を追い落とし、次第に権力を手中に収めると言う傾向であろう。治安維持法以後は、思想検事系列の礎と形容されて、戦時体制下で絶大な力をふるった平沼閥である。

この平沼族は、第二次大戦直後からの、東西冷戦構造へと動く中で、対ソ防塁としての日本の役割から温存され、日本の刑事司法システムを動かすマンパワーとして、その捜査手法、恫喝、人質司法を温存する文化を残しているのではないか。そして戦勝国アメリカの意向に沿う形で、戦後の松川事件、各疑獄事件、田中角栄、小沢一郎の捜査を通して、日本の政治の裏側で、確実に国政の動向を左右し続けてきたのではないだろうか。
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10.刑事司法の中の拷問状況について
美濃賀茂市長への控訴の論点(13)2015.07.06 Monday


憲法、刑法、刑事訴訟法上の「拷問」の禁止規定は以下の通りである。

「日本国憲法」
第36条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
第38条 黙秘権、自白の証拠能力
何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
2 強制、拷問若しくは強迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。
(しかし、黙秘権の告知は憲法上要求されていない。また、憲法上判決裁判所における公判廷で行った被告人の自白を含まないという最高裁判例(最高裁第二小法廷 昭和22年11月29日)があるという。)

「刑法」
第195条(特別公務員暴行陵虐)
@裁判、検察若しくは警察の職務を行う者又はこれらの職務を補助する者が、その職務を行うに当たり、被告人、被疑者その他の者に対して暴行又は陵辱若しくは加虐の行為をしたときは、7年以下の懲役又は禁錮に処する。
A法令により拘禁された者を看守し又は護送する者がその拘禁された者に対して暴行又は陵辱若しくは加虐の行為をしたときも、前項と同様とする。

「刑事訴訟法」
(自白法則・補強法則)
第319条1.強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く抑留又は拘禁された後の自白その他任意にされたものでない疑のある自白は、これを証拠とすることができない。
2.被告人は、公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない。
3.前2項の自白には、起訴された犯罪について有罪であることを自認する場合を含む。

これだけ揃っていても、被疑者容疑者には、長期にわたる拘留、その間中の国際的にも注目される代用監獄、衣食住のコントロール下、生活の基盤喪失に直面しながらの連日長期の取り調べ、その渦中に落とされる。美濃賀茂市長の控訴までの経過は日本の刑事司法システムの作動、その実態といえよう。そうして取られた自供が有効な証拠として生きてくる。

@日本の刑事司法における拷問の定義とは?
このような憲法違反と思われる刑事司法の取り調べが許されている理由のひとつは、憲法、刑事訴訟法上の「拷問」、刑法上の「暴行又は陵辱若しくは加虐の行為」の定義、その範囲の解釈の問題であろう。三省堂の大辞林では「自白を強要するため,肉体的苦痛を与えること。現行憲法は拷問を禁止している。」としている。

問題は、拷問禁止と言う方向が、法システムの運用の中でどの程度の実効化されるのか、されないのかである。「絶対」に禁止されているという「拷問」の定義、その定義内容が拷問に当たらない取り調べ、非拷問の範囲を明らかにする。

たとえば 日本では、検閲の禁止について問題となったが、最高裁が 公権力による表現の事前抑制のうち、 憲法が明文で禁止する検閲は、「例外なしに許されない」とした上で, 検閲の概念を極めて厳格にして、つまり「検閲の範囲を狭く定義」している。

この結果、行政の行う表現の事前抑制に相当するものは、検閲でない事になり、 公共の福祉を理由に合憲と判断されることになった。つまり「判例・多数説は、検閲禁止の憲法的意味を『絶対的禁止』ととらえて強化するが、 その結果、 検閲禁止の法理が実際に妥当する事例は極端に狭められ, 実際の憲法訴訟で『検閲禁止』違反が宣言されることはほとんどなくなった。「このような検閲概念の設定が、 検閲禁止の規範力を実際に失わせてしまうという意味で不当である」 と指摘されている。

同様に拷問の範囲をどのように、解釈、規定した上で、その部分を絶対に行わないのだろうか?つまり「拷問」を狭く、「拷問に当たらない」を広くして、拷問の野放しが日本の実情ではないだろうか。

アメリカ合州国の各州では被疑者は、48時間以内に検察に送致され、その時には釈放されるのが通例であるという報告があってリアルだった。犯罪多発国である。他の諸国もアメリカに近く、日本の取り調べの実態、衣食住をコントロールして、23日、それ以上、(美濃賀茂市長は郷原弁護士が付いていても2カ月)さらに長期に拘留出来る、刑事取り調べは世界中から驚かれる程異例である。

しかし政府の国際比較資料をみると、諸外国の分は重犯罪者への例外規定を列挙しているので、日本の長さが示されない。

これだけ長く拘留されても失業しない日本国民は、公務員以外はあり得ないのだから、一般の国民が冤罪されそうな場合、その人は生活崩壊、家族関係の崩壊は想像に難くないのだから、生活崩壊への恐怖、親族への影響などを脅しに使う、現在の取り調べは、大きな心理的ストレスのある、拷問そのものではないだろうか。

拷問の定義を非常に狭くして、身体的な危害のみに限定しているとしか考えられない。取り調べ直後に自殺、あるいは死亡しても、持病があったなどと、取り調べとの因果関係を否定するマスメディアの報道が流される。この因果関係を捜査すべきは、同じ取り調べ側組織、当事者の警察、検察である。こういう運用で憲法は死文化している。

A尋問術と自己負罪拒否特権
裁判官は尋問を行う実施する職業だが、古来、尋問術とは 『主として心理学を基礎においており,被尋問者の個性,精神的特性やこれまでの行状に応じて裁判官にうまく扱わせるよう命じる準則である。予審判事は,策略,苦悩,不意打ち,秘匿,疲労,態度の軟化という方法によって被疑者・被告人に働きかけ,被疑者・被告人から自白を獲得しようと努めた。さらに,裁判官は,被疑者・被告人を巧妙に矛盾に陥らせることによって「がんじがらめ」にした。この尋問術は,糺問的尋問において卓越した役割を担った。不服従罰および虚言罰が創設され、「陰険な狩猟学」』と指摘されている。

私達は、法的知識も乏しく、生活崩壊の危機の中で、心理学に基礎を置く巧妙な尋問術を持つ取り調べに晒されるのであれば、自殺も起こるのだから、今の日本では検察の想定する真実がこのように捏造されていても、掬水のようであっても、捜査側には抵抗しきれず、被疑者の人権はその下で無に帰している。美濃加茂市長への30万円収賄容疑もまたまた掬水。

明治5年当時、140年も前には司法省は拷問の上であっても、「凡罪ヲ断スルハ口供(自供)結案ニ依ル、若シ甘結セスシテ死亡スル者ハ証左アリト雖モ其罪ヲ論セス」としており、死なないと逃れられない冤罪も少なからず、あったのであろう。口供(自供)の有無で罪責の有無が決まっていた。

しかし、その中で明治8年ボアソナードが拷問の惨状を目撃し、「拷問廃止建白書」を司法卿に提出したと言う。これに対し明治9年4月陸奥宗光元老院議官が,改定律例第318条改正の意見書を提出し、「……本條ニ曰ク凡ソ罪ヲ断スルハ口供結案ニ依ル云々夫レ自ラ為シタルノ悪ヲ自ラ告白スルハ人情決シテ能ハサル所事実絶ヘテ無キ者ナリ……」と発言している。

自己負罪供述は人情ゆえに不可能であると指摘したそうである。自己負罪拒否特権とは、(何人も悪行を自ら打ち明けない)という法諺であり、何人も自らの恥をさらすよう義務づけられないがゆえに,自身にとって不利な証言で負罪するよう強制されず、私的行動や信用に関する負罪的質問に答えるよう要求することは汚名や訴追を受ける危険を負わせることになるとして、ius commune (普通法)に反するという法理が示された。

提出された改正意見書は,拷訊の残酷さや弊害を訴え,拷訊廃止と依証断罪を提案して、特に自己負罪供述の点につき、「父が子の,子が父の犯罪を隠そうとする行為は父子の恩情や篤厚という「情」ゆえに許される一方で,自己の身を愛するゆえに犯罪を隠すことは「理」ゆえに許されないというのは道理にかなわない」ー時代劇のお白州場面を彷彿とするーと指摘、さらにアメリカ合衆国憲法が規定するこの自己負罪拒否特権にも言及したという。

誰しもなにがしかの自己肯定感無くしては生きられず、それは心理学的なケアのベースにもある真実、それが社会的存在である人間存在であろう。罪人に対するとはいえ、自らの恥を晒す事を強制する事は、ひとの「情」と了解されるに反し、確かに惨い(むごい)事、理不尽であるに違いない。このような嘘の自供を強制され、それに抗せずに負けて、自らを貶めた事実は、人をどれ程の絶望と虚無の奈落におとすものか、その命は日本の地獄を抱いて生きたとしか、言いようがない。

B特高とゲシュタポ
日本国憲法は「絶対」という文言を入れて拷問を禁止しており、この点が世界にも稀な特徴とされている。これは戦後GHQが、治安維持法を運用した特高、(あるいは関東軍?)を、悪名高いナチスのゲシュタボと同じであると理解し、再び被疑者国民に拷問をする可能性故に、特に「絶対」と言う文言を入れたと言う歴史的経過である。

安倍総理はその「絶対」を削除したいとして、改悪憲法の安倍草案が作成された。この裏側は最高裁事務総局、その裏にはアメリカ政府がいるのだろうが、安倍安保法制は戦中復帰、ゲシュタポの日本再来へと動いているかのようである。

国粋主義的な言辞をマスコミを使って宣伝、これに同調しない国民は、長期拘留、精神的な拷問、失業の危機、生活の破綻、そして若い世代は戦場となろうか。

戦後、共産主義への防塁としての日本の役割は、当初ナチスゲシュタポと同一視されていた特高の技術が重宝されたのだから、アメリカ市場原理主義の合理性とは、手段を選ばないのである。東洋の黄色人種(日本人)は道具として用いられた。そして特高はその成功体験から、今は司法マフィアの如くふるまい、アメリカ追随であろう。

しかしアメリカも疲弊し今では貧困が広がり、国民は病気になればホームレスになるような社会、医療保険が無い社会である。TPPは日本を米国化するであろう。

誰でも、いつも強く、子々孫々がすべて強者とは限らない。しかしその弱い子々孫々も、もし安堵の中で育ってゆけるのならば、力をつけて行く事ができる存在であろう。弱い人達こそが自分自身であり、安堵が、生活の安定が望まれている。

日本は民主主義国家、美しく発展すると言うのはデマであり、洗脳技術である。隣国朝鮮や中国の人々を劣っている、汚いなどと罵る姿を鏡に映し、マスコミや政府の民主国家幻想に騙されない事である。この国は代用監獄を維持して、都合の悪い人は冤罪し、首相の首も挿げ変え、マスコミが大規模に嘘を拡散する社会になっている。

それが明らかになったのは、多くの犠牲の結果である。大人が、マスコミが、政府が嘘を拡散しない社会、よく交流して、若い人は恋をし、子を産し、その子が良く育つ社会へと、動くためには、この貧困の中で、税金をつかって戦争をしている場合では無い。

今こそ正念場。70年を超えて、自分達の為に税金を使う政府を起こしてゆかねば、次世代の幸せは無い。右翼左翼を越えて、国民の安堵、国民の生活が一番を求めて、纏(まとま)らなければならない時である。
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11.法システムの働き方を変えるためにー日本の刑事司法システムの検討ー
美濃加茂市長への控訴の論点(12)2015.06.19 Friday

ーー法システムの構成要素@成文法A法施行機関B法曹職(マンパワー)を考えるーー

その@成文法―法文自体の問題
★248条起訴便宜主義、裁判の効率上の要請ではあるが、しかし軽微な犯罪と重罪(巨悪、政治家への捜査)の捜査のルールは一元化すべき。
★起訴・不起訴・不起訴の中の起訴猶予・嫌疑不十分・嫌疑なしの3区分けについて、国民にも理解しやすいように、法規定に屋上屋を重ねずに、起訴、不起訴の2つの範疇に限定する。
★公判前の証拠の整理のルールを明示改革
被疑者弁護側、捜査側(国側)の提出する証拠を検察官が指揮をして、整理、
双方弁論を経て、検察官の起訴便宜決定を進める

そのA刑法を執行する機関の構成、権限について
★(起訴便宜権と捜査権を持つ機関の分離)
起訴・不起訴の決定権を持つ機関(検察)と被疑者を捜査する権利(捜査権)を持つ機関の分離が絶対的に必要である。
 そこで検察が取り調べから撤退する。
(日本では検察も捜査を行うが、イギリス、アメリカ、フランスなどでは、検察自らが関係者を取り調べる事は無い。起訴権者が捜査をするのは異例であり、これが日本に特殊とされる人質司法の源であろう。)
代わりに警察内部に司法警察的な部署を持って被疑者取り調べを行い、証拠整理をして、被疑者弁護士と合議の上証拠を揃え、検察官に提出する所まで行う形式が良いと思われる。現制度でも副検事が活躍している。
(現制度、http://matome.naver.jp/odai/2136400545930293301
全国の検察官の約3分の1が副検事で、実質的に検事とほとんど変わらない仕事をこなしている。一定の要件を満たせば、「副検事選考試験」を受験し、合格することで「副検事」に任命される。職種を選んで公務員になっとけば、法学部いかなくても検察官になれちゃうんですね。)

★(特捜は解消して、アドホックグループに移行)
アドホックグループとは、必要が生じた場合に組織されて、任務が終わると解散する組織。EUの貧困実態調査など、政策策定にかかわる機動力ある調査活動で使われているようだ。(現特捜は1947年からの歴史であり、終戦直後の闇物資取り締まりから始り、巨悪の捜査取り締まりへと向かって、現在東京、大阪、名古屋の3組織となっている。)

★被疑者、容疑者の拘留申請に対しては検察官が対応する。
(取り調べ(捜査)側・被疑者弁護人の双方の弁論の後で、検察官が拘留を許可する形)
★被疑者が罪状に否認すると、是認するまでも長期拘留をする手法(人質司法)の改革は、捜査機関と起訴決定機関を分離することによって、長期拘留のメリットを消滅せしめ、代用監獄を利用する必要性を減じせしめる事であろう。

参)(郷原信郎が斬る2014/7/5より)
「刑事裁判官の判断のうち、証拠による事実認定や法律判断という判決を下すことについては、裁判官としての一定の経験年数が必要とされ、判事補は、5年以上の経験を有する「特例判事補」でなければ、単独で裁判を行うことができないことになっている。また、 重罪の裁判については、十分な経験を有する裁判長を含む3人の合議体で裁判が行われる。
その一方で、逮捕状の発布、勾留の決定などには、裁判官としての経験年数は必要とされない。つまり、現在の裁判所では、事実認定、法律適用などの「実体判断」が重視され、逮捕、勾留などの身柄拘束に関する「手続判断」は、著しく軽視されているのである。しかし、事件によっては、最終的な事実認定や法律判断ばかりでなく、逮捕・勾留という身柄拘束についての判断が、被疑者自身やその家族に重大な影響を与える場合もある。また、今回の事件のように、被疑者の身柄拘束が地方自治体の住民や行政に重大な影響を与える場合もある。そういう「実体判断」重視、「手続判断」軽視の裁判所のシステムが、今回の事件での現職市長に対して、「逃亡のおそれがある」などという非常識な勾留理由の判断が行われた根本的な原因であるように思える。」(裁判官制度上の問題)」

★公判前の証拠整理のルール、弁護士と捜査側の証拠の全てを提出、
被疑者に有利、不利に拘わらず、全ての証拠が弁護、取り調べ側双方に公開される事が必要。
 証拠の整理は、取り調べ側・被疑者弁護士の合議によるべき。
★公判前の証拠の整理ルールを上記変更し、検察官が警察、弁護士の合議により、収集、作成した証拠リスト、中身を検討、検察官が、不足等の証拠を請求して揃えて最終整理、起訴便宜権を発動する。(捜査に腕をふるう検察ではなく、証拠のありか、その収集、法解釈に腕をふるう検察、公判活動をする検察とする。英、仏、独などではそうであると言う。)

★法廷では裁判官が、双方の弁論、証拠から更に、証拠の追加など求め、法宣言機関(裁判所)として判決を述べる。
    (現在の警察が主張する、人質司法の必要性は消滅する。)

そのB法曹職の養成、法曹3職について(マンパワーの質の問題)
★ 裁判官の自立性の徹底・裁判官会議の復活の為の事務総局職員の人事要件改革
1)最高裁事務総局の官僚は、非法曹の事務官僚にして、裁判官人事制度、昇進、任地、報酬規定の公開。
   専門職であって、かつ事務官僚では、その専門職の正義を専断的に文書化できる弊害がある。
  判事補、10年の再任制度をなくす。(アメリカは通常任期4年)
2)最高裁判事任命のルールを、戦後第1回の時のルールに戻して、公開。
 「当判(あてはん)」は司法官僚の事務と判決を構成するという両方の能力を具有、具備しているとされているが、それだけに法を道具として、官僚的 利益を実現するという弊害も大きい。最高裁判事は法宣言能力を重視して選任する。
 名簿作成の段階から公開、国民審査ではなく選挙制度を導入する。
3)判官交流の禁止
4)司法試験の透明性の確保(縁故・裏口合格の根絶)
5)社会の各場面、現場からのリクルート制度導入
 (司法警察官・学者・少年法担当各職種・司法書士・社会福祉士・裁判所調査官等)
6)法科大学院入試資格を拡大、理系、文系を問わず門戸を開けて、一定の教養試験導入
                         2015/06/19 

当ブログ 成年後見制度のゆくえより   戦後日本の政治手法(10)              2011.11.17 Thursday
裁判所の運営や司法行政事務についての公式見解としては、「バイブル」のようにさえ見なされてきた「裁判所法逐条解説・上下」(1968年)が生きているそうだ。

 この中身は戦後の司法の行政からの独立、三権独立を骨子とする司法改革、裁判官の間での平等、「法曹と言う専門職者間での平等」に基き、裁判所の長官は、他の裁判官と同じ立場で裁判官会議の一構成員としている。この裁判官会議が裁判所の実務執行のための機関であり、その議により行う司法行政事務が適切妥当であるように、事務を担当する諸機関の調整助成する者が裁判所の長官と位置付けているという。

 しかし実際問題は、3700名の裁判官に明示されないルールによる人事評価があり、評価する側(高裁、地裁の長官、その他様々)の情報が最高裁事務総局に上がる構造の中で、裁判官会議は実質事務方が握りこみ、形骸化しているという。その任地(転勤先)、報酬について影響を行使しつつ、裁判の中身までを左右する司法官僚組織の下で、ヒラメ裁判官などと言われる、人事権を持つ集団の意向を伺わざるを得ない裁判官文化がすでに根付いているのだろうか。ある意味生殺与奪を握られている。
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